天守の現存する城。三大山城、日本百名城。備中の戦国大名・三村家親が攻略したが、毛利家が三村家を攻撃し落城した。毛利氏は関ヶ原合戦で敗れ、小堀正次が城代として入城した。日常の政務には不便であったため山麓に居館が構えられた。
備前国との国境近くにある平城で、毛利家家臣・清水宗治の居城。織田方の羽柴秀吉軍が水攻めにしたことや、宗治の切腹、織田信長が本能寺の変で落命しここから秀吉が畿内へ引き返したこと等が有名。現在は公園として宗治の墓などが残る。
備中の戦国大名・三村氏が築いたのが城の始まり。のちに毛利氏、宇喜多氏が支配したが、宇喜多氏が関ヶ原合戦に敗北し没落すると、元宇喜多氏の家臣で宇喜多騒動により徳川家康の配下となっていた戸川達安が当地に封じられ、庭瀬藩を立派した。
江戸時代の延宝7年(1679)に庭瀬藩藩主・戸川安風が改易された際、安風の弟・達冨が家名存続のため幕府から5000石を与えられ、庭瀬城から至近の当地に撫川城(陣屋)を築いた。
足守藩は関ヶ原合戦後に木下家定(豊臣秀吉の妻・高台院の兄)が当地に封じられた際に立藩した。慶長15年に浅野長晟が入封しが、大坂の陣の後、戦功を立てた木下利房(家定の子)が再度足守藩主に任じられ、以降幕末まで木下家が藩主を務めた。
備中の戦国大名・三村氏の本拠。その後、元和三年に山崎家治が入封し成羽藩を立藩するが、その手腕を買われ天草の乱で荒廃した肥後富岡へ転封された。水谷勝隆が入封するも間もなく備中松山に転じ、山崎家治の二男・豊治が成羽藩主として入封した。