日本百名城。この地は元は戦国大名龍造寺氏の本拠地である村中城があったが、やがて龍造寺氏の家臣・鍋島氏が実権を握り、江戸時代に入ってから城を拡張し現在の佐賀城となった。 本丸御殿が復元された他、鯱の門・続櫓が現存する。
唐津城はこの地に封じられた寺沢高広が築いた城で、慶長13年(1608)に完成した。建築には名護屋城を解体した資材が用いられたという。現在は舞鶴公園として整備され、天守も復興された。
日本百名城。全国制覇した豊臣秀吉が、朝鮮半島・中国大陸の侵略を目論み、その拠点とするために築いた城。周辺には全国の諸大名の陣が築かれた。慶長3年に秀吉が死去すると廃城された。島原の乱が起こると、同じような乱が再び起こらないよう徹底的に破城された。実際、石垣がV字に破壊されている箇所が多数ある。
日本百名城。もとは日の岳城と呼ばれ、松浦氏の第26代・鎮信(法印)が慶長4年に築いたのが始まり。その後、第29代・鎮信(天祥)が慶安4年頃から山鹿素行とともに城の縄張りを行い、享保3年に完成したのが、現在の平戸城である。
大村氏はもとは三城を本拠としていたが、19代喜前が慶長4年に大村城を築いた。以降、幕末まで大村藩の居城となった。隣国・肥後の加藤清正の助言を参考に城の改修が行われたと言う。城は大村湾に面し、船着場などの珍しい貴重な遺構が残る。
日本百名城。元々島原の地は日野江藩有馬氏の領地であったが、松倉重政が入封した時に築かれた城で、着工は元和四年(1616)である。島原の乱では城は一揆軍に城を包囲されるが、堅固な守りにより落城しなかった。明治維新により廃城となった。
戦国大名・有馬氏の八代・貴純が明応五年に築いたのが始まり。十四代の直純が転封となったあと、元和四年に一度は廃城された。島原の乱の際には一揆軍が籠城し、幕府軍が城を三ヶ月間包囲した末、遂に落城、乱は鎮圧された。
治承~文治年間(1177~1190)に松浦党の源披が築いたのが始まりである。披の子・持が平戸に拠点を移したため、廃城になったと言われる。その後、当地を支配した波多氏は城を整備し鶴田前を入れて龍造寺氏との境界を固めた。波多氏の後に寺沢氏が当地に封じられると、獅子ヶ城を石垣造りの城に造り替えた。
上松浦党の棟梁であった波多氏の居城。築城は南北朝時代と伝わる。波多氏は現在の唐津付近を拠点に勢力をふるったが、第17代・波多親(はた・ちかし)の時に豊臣秀吉に従属した。当地は壱岐・対馬を経由し朝鮮へ渡るための起点であったため、秀吉によって城が石垣造りに改修されたようである。
当地の水軍を束ねた松浦党の城で、築城されたのは平安時代と言われる。以降松浦党の拠点として戦国時代まで使われた。城は玄界灘から繋がる伊万里湾沿いの山上に位置し、眼下には湾内の様子が手に取るように見える。豊臣秀吉の命により、石垣を多用した改修が行われ、天守台も備える。
別名石田城。五島藩主である五島氏は元は江川城を居城としていたが、慶長19年に焼失し以降城を持たなかった。しかし幕末に至り外国からの脅威に備えるため、幕命により築かれたのが福江城である。嘉永2年に築城を開始し、文久3年に完成した。