日本百名城。蒲生氏郷が天正十六年(1588)に築城した。氏郷が会津若松へ移封された後には、服部一忠、古田重勝が城主となった。元和五年(1619)には紀州藩領となり城代が置かれた。総石垣作りの城で迫力に圧倒される。
田丸城は延元元年(1336)に北畠親房が南勢の拠点として築いたものである。織田信長が伊勢を攻略、次男信雄を北畠氏の養子嗣とし、本拠地を大河内城から田丸城に移した。荒い石を積み上げた石垣が印象的である。
伊勢の豪族・細野氏の居城であったが、永禄11年には織田信長が伊勢に侵攻し、弟・信包を城主とした。江戸時代に入り津城には藤堂高虎が入り城の改修・拡張を進め、以降江戸時代を通じて津城は藤堂氏の居城となった。
文永2年に関実忠が築城して以降関氏の本拠城となるが、織田信長が伊勢に侵攻し関氏当主・盛信は追放された。寛永13年には本多俊次が入封され、城の改修を行った。城は東海道沿いにあるため、将軍上洛の際の宿の役割も果たした。
当地の豪族・神戸氏が築いた城で、築城は1550年頃と言われる。永禄11年(1568)には織田信長が伊勢に侵攻し、神戸氏は信長の三男・信孝を養子に受け入れる条件で和睦した。天正8年(1580)には信孝により五重の天守が建られた。
当地は伊勢国の山間部に位置するが、大坂・奈良方面から伊勢神宮へ抜ける伊勢本街道が通る要所であった。北畠氏は興国3年(1342)に本拠としていた田丸城が落城すると当地に本拠を移したと伝わり、その後霧山城も築かれたものと思われる。戦国時代には北畠家は伊勢を始め、紀伊・大和の一部を支配するなど勢力を広げた。
伊勢国司を務めた北畠氏の館の背後にある山城。当地は伊勢国の山間部に位置するが、大坂・奈良方面から伊勢神宮へ抜ける伊勢本街道が通る要所であった。北畠氏は興国3年(1342)に本拠としていた田丸城が落城すると当地に本拠を移したと伝わり、その後霧山城も築かれたものと思われる。戦国時代には北畠家は伊勢を始め、紀伊・大和の一部を支配するなど勢力を広げた。
采女城は後藤基秀が当地の地頭となった際に築いたのが始まりである。時代が下り戦国時代になると、尾張の織田信長の侵略に遭った。後藤家は采女城に拠って信長軍と戦うが、永禄11年(1568)に落城した。その際、城主の後藤藤勝は討死し、娘の千奈美姫も井戸に身を投げたと伝わる。現在は采女城跡市民緑地として整備され、遊歩道などもあり見学しやすい。
東の坂内川、西の矢津川に挟まれた要害に位置する城。応永十年に伊勢国司三代・北畠満雅が築いたのが城の始まりで、満雅の弟・顕雅が城主となった。戦国時代になると尾張の織田信長が伊勢に侵攻し、北畠具教は大河内城で信長の攻撃を迎え撃ち、見事撃退した。のちに両家は和睦し、織田信雄は大河内城に入ったが、田丸城に移った際に大河内城は廃城となった。
鎌倉時代に野呂氏隆が築いたのが始まりと伝わる。野呂氏は戦国時代には北畠家の家臣となり織田家と戦った。のちに北畠家は織田家から養子(信雄)を迎え家督を譲る形で和睦したが、北畠具教が織田信長に殺害され北畠家は没落した。本能寺の変の混乱に乗じ、北畠具教の弟・具親が挙兵し五箇篠山城に籠ったが、翌年に織田信雄の攻撃を受け落城した。
関ヶ原合戦に徳川四天王の一人・本多忠勝が入封した。 忠勝は城を拡張し東海道を扼する要衝にふさわしい近代城郭とした。代わって松平氏が入封したが、戊辰戦争の際には桑名藩は幕府側につき、新政府軍の攻撃を受け降伏し、城は焼失した。
長島城のあった地は戦国時代には願証寺が中心となり長島一向一揆の拠点となった。織田信長との壮絶な戦いの結果、長島城は陥落し一揆勢は皆殺しにされた。江戸時代の元禄15年(1702)に増山家が長島藩を立藩し、明治維新に至った。城は木曽川と揖斐川の中州(輪中地帯)にある。現在は城の遺構はあまり残っていないが、長島城の移築建築が蓮生寺・願証寺に残る。