仏殿城は川之江城とも呼ばれ、瀬戸内海沿岸の山上に築かれた山城である。
当地は、東は阿波、北は讃岐、南は土佐、西は伊予へ至る交通の要衝であり、それ故仏殿城を争う戦も多かった。畿内にも勢力を伸ばした細川家の支配から、伊予・河野家の支配下に移った。城主で河野家家臣の妻鳥友春は長宗我部家に寝返るが、河野家の攻撃を受け落城し、河上安勝が城主となった。長宗我部家が四国を制覇した際には長宗我部家の攻撃により落城し、その支配下に納められた。その後、豊臣秀吉配下の小早川隆景に攻められ落城した。
豊臣政権下では小早川家、福島家、池田家、小川家と支配者が代わり、関ヶ原合戦後に伊予松山の加藤家の支配下に入ったが、慶長16年(1611)に廃城された。
その後、寛永13年(1636)に一柳直家が当地に封じられ川之江陣屋を開いたが、同19年(1642)に直家は病没したため当地は幕府領となり陣屋は廃された。
現在、城には模擬天守や城門が建てられ、城からは瀬戸内海を見渡すことができる。
仏殿城は川之江城とも呼ばれ、瀬戸内海沿岸の山上に築かれた山城。当地は、東は阿波、北は讃岐、南は土佐、西は伊予へ至る交通の要衝であり、それ故仏殿城を争う戦も多かった。現在、城には模擬天守や城門が建てられ、城からは瀬戸内海を見渡すことができる。
(2012/1/8 作成)