茨木城は建武年間に楠木正成によって築城されたのが始まりとの説がある。その後、室町時代には茨木氏が城主となったが、茨木長隆は畿内に勢力を拡大した三好長慶と対立し敗北した。また、のちの茨木城主・茨木重隆は織田信長に従ったが、荒木村重と戦い戦死し、茨木家は没落した。代わって荒木村重の家臣・中川清秀が茨木城主となった。中川清秀は荒木村重が信長に背いた際に信長方にとどまり、信長の死後は羽柴秀吉につくなど戦国の世を生き延びるが、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで戦死した。以降、茨木は秀吉の直轄領となった。
関ヶ原合戦後には片桐且元が茨木城主に任じられた。且元は豊臣秀頼の重臣であったが、徳川家康にも近く、両家の調整などの役に当たった。しかしついに大坂の陣で豊臣・徳川が激突すると、且元は豊臣方の使者として和睦を試みるが達せず、豊臣家中から徳川への内通を疑われ大坂城から退去した。豊臣家滅亡後、且元は間もなく死去した。豊臣家滅亡の責を負って自刃したとの説もある。茨木城は、その後間もなく元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。現在城跡は市街地化され、痕跡は殆ど残っていないが、いくつかの移築建築が現存する。
室町時代の城主は茨木氏だが、茨木重隆は荒木村重と戦い戦死し茨木家は没落、荒木村重の家臣・中川清秀が城主となった。中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死し、秀吉の直轄領となった。関ヶ原合戦後には片桐且元が茨木城主に任じられた。且元は豊臣秀頼の重臣であったが、豊臣家滅亡後間もなく死去した。豊臣家滅亡の責を負って自刃したとの説もある。
(2013/4/6 作成、2020/5/16 更新)