五箇篠山城は鎌倉時代に野呂氏隆が築いたのが始まりと伝わる。野呂氏は戦国時代には北畠家の家臣となり織田家と戦った。のちに北畠家は織田家から養子(信雄)を迎え家督を譲る形で和睦したが、北畠具教が織田信長に殺害され北畠家は没落した。織田信長が本能寺の変で倒れると、出家していた北畠具教の弟・具親が還俗して挙兵し、五箇篠山城に籠った。しかし、翌年に織田信雄の攻撃を受け落城し、廃城された。
城は独立丘陵に築かれ、左右の尾根上に曲輪が連続する構造である。曲輪の間は空堀で区切られている。
鎌倉時代に野呂氏隆が築いたのが始まりと伝わる。野呂氏は戦国時代には北畠家の家臣となり織田家と戦った。のちに北畠家は織田家から養子(信雄)を迎え家督を譲る形で和睦したが、北畠具教が織田信長に殺害され北畠家は没落した。本能寺の変の混乱に乗じ、北畠具教の弟・具親が挙兵し五箇篠山城に籠ったが、翌年に織田信雄の攻撃を受け落城した。
(2013/7/20 作成)